走馬灯

走馬灯

走馬灯のようによみがえる記憶、大切な思い出を風化させないための記録として残すことにしました。

 

★古いアルバムより★

 

★誕生記録★

 

★八幡小学校-相生小学校-相生中学校-郡上高校★

 

★当時のメモ帳より(15歳)★

 

★故郷・上京・就職(16歳~17歳)★

 

★23歳以降★

 

思い出ひろい

★東京 駒込★ 2021年2月11日

昭和51年3月の1カ月だけ住んだところです。この1カ月がその後の人生を大きく変えた、いわゆる分岐点となったのです。当時はそんなこと知る由もなく、食いための職探しに没頭していました。そういう意味においてもここ駒込は、私の人生を語るには絶対に外せない場所と言えます。45年ぶりにこの地を訪れましたが、当時とあまり変わっていないことに驚きました。また、そのことがとても嬉しく、懐かしむには十分過ぎました。

 

★東京 御茶ノ水★ 2021年2月16日

20歳前後の一番お金のない時期、ここへ来ては中古のレコードを買いあさっていました。今でもそのお店は残っていて音楽業界はこの40年目まぐるしい進化を遂げてきましたが、そんな中においてこのお店が残っていたことがとても嬉しく、どのようにして時代の流れに乗ってきたのかが知りたくなりました。次回は入店し、何を売っているのかこの目で確かめたいと思います。

 

★東京 東上野★ 2021年2月20日

昭和50年8月に上京、当時16歳、東京での暮らしはここから始まりました。あれから45年、東上野に当時の面影をひろいに行きましたが、残念ながらほとんど残っていませんでした。唯一残っていたのが地下鉄銀座線の車庫、さすがにこの場所を移動することはできなかったのでしょう、部分的なリニューアルはあったにせよ、ほぼ当時のまま残っているように思いました。昭和50年8月に就職した光輪モータース、翌年の昭和50年2月に退社するまでの半年間は、商いというものは何であるかを学んだ貴重な期間だったように思います。本来なら高校2年生、一番吸収の良い時期に社会に出て、お金を稼ぐことの難しさを学んでいたのです。今になって言えることは学ぶのは学校だけではないということ、このように社会に出てからでもその局面において様々のことを学習していくことが出来る、それはむしろ学校で学ぶことよりも現実的で、生きていくためにはこちらの学習の方が大切ではないかとさえ思ってしまいます。ただ、上京当時の私は高校を中退し東京に来てしまったことが本当に良かったのだろうか、これで生きていけるのだろうか、田舎に帰るべきではないかと、寮の布団の中で何幾度となく自問自答し、枕を濡らした日もありました。死にたいと思ったこともありました。この会社での勤労生活は、悩み、苦しみ、迷う、この繰り返しだったように思います。

★東京 保谷市(西東京市)★ 2021年2月23日

昭和50年8月から翌年の2月末日まで寝泊りをさせていただいた東京都保谷市の社員寮、今は西東京市に変わってしまいましたが泉町という住所は当時のまま残っていました。寮のあった場所がどこだったか、だいたいの見当はついていたのでその場所まで行って見ましたが、当時の面影を見つけ出すことはできませんでした。考えてみたら45年も前のこと、木造建築物など残っているはずがありません。それでも思い出がどこかに落ちていないかと探す姿は、近隣の人たちから見れば不審人物でしかなく、長居は無用と早々に立ち去りました。そして駅までの道を歩きながら立ち止まったのが郵便局の前です。この郵便局を見た瞬間『あったー!』と叫んでしまいました。給料をもらうと最初の休日(水曜日)には必ずここに来て、現金書留で田舎にお金を送っていたのです。駅前は再開発されたようで、まったく違う光景になっていました。立派な駅ビルが建ち、なかには多くのテナントが入っていました。当時とは大違いです。ここから毎日池袋まで行き、池袋から山手線で上野にある会社まで行くのが日課でした。電車はいつも混んでいて、寮が駅から遠いこともあり、通勤時間は片道1時間以上かかりました。それでも休むことなく、辞めるまでの半年間遅刻もせず毎日通い続けました。今思うとお金を稼ぎたい一心だったのだと思います。

 

 

★母の日記★

昨年夏、故郷を引き払う際にに出てきた様々な思い出の品、その中に母の手記(日記)があり、見ると私のことばかりが書き込んであって、子を思う母の気持ちがひしひしと伝わってきました。特に昭和53年(1978年)から翌年の4月までの手記は心震えるような内容のものが多く、私が19歳から20歳になるまでの約1年半書き綴られたものでした。今回はそのなかの一部をこのホームページにてご紹介したいと思います。方言など読み取り辛い部分がありますがご容赦ください。また、読み取り辛い文面は原文の一部を読みやすくしてご紹介したいと思います。

 

昭和53年1月1日 達人語る

今の仕事を続けていくつもりだ。将来は東京の方に土地を買って家を建てる。三階建てにして一階はガレージ、二階は親たちの部屋、三階は自分たちの部屋にしたい。弟はこの家を継いでやっていけばいい、家も建て直すべきだ。親は東京へ呼んで俺が面倒を見る。仕事をさせないでゆっくり遊ばせて老後を過ごさせたいと思う。俺は学校はやめたけど、他人がなんと言おうと、友達がなんと言おうと、きっと立派にやってみせる。仕事に学歴は少しも関係ない。郡上高校へ上位で合格した、その誇りは決して忘れない。惨めな思いはしていない、自分の選んだ道だから。                                            叔父さんがお母ちゃんのことを「口が悪いでなあ、気は悪うないけど」その一言にカッと来て立ち上がろうと思った。それを見た叔父の従兄弟が止めに入り、その場は抑えた。俺も親の悪口を言われると腹が立つ。今まで苦労したけど、俺が頑張るでええぞ、心配せんでも。親父は親父は仕方ない、あんばようやれよ。達人は本当に親孝行だと思う。私よりも親のことを考えている。その夜は随分と話し合った。そして達人の心の中も充分理解できた。あの子はあの子なりに貧乏な私たちを何とかしたいと思ったのだ。そして焦った、その結果高校を中退した。その気持ちのあせりだけど、私はうれしいと思う。あの子が悪いのではなく、親が貧しいせいだと思う。

 

昭和53年1月2日 青地さん宅で

「松井さん、この子は大したものになるで、楽しみやな、しっかりしとるも」とご主人は言う。東京まで単車(バイク)で行って随分心配したけど、度胸がええなあと驚いていた。達人は青地さんが人より頭を低うして商売をやり世間を渡る、それを俺は見習ったという。アルバイトも悪くなかった。今から思うとあの子の現在のためにはよかった。お母ちゃんが、お前にアルバイトをせんなれと言ったのはお金の問題ばかりではない。社会勉強のためにもなる、就職したときにアルバイトの経験のあるものと、ないものとでは違うと思って勧めた。そしたらお前がそのまま退学したために、今郡上高校はアルバイトを禁止しているらしい。そう言うと達人は、うんわかっとる、あいつはやっぱり学校も出ずにダメやったと云われんようにと言っとる。達人は相当しっかりした考えを持っているし、落ち着いてきた。その後中田先生の家をお尋ねして少し話をして来たらしい。その内容を知りたい。

 

昭和53年1月8日 晴れ

達人は東京へ帰った。キンカチョウを一つがい持って行ったし、鳥かごも大きい方を持って行った。毛布とギターも。カバンの中へパジャマ、作業ズボン、裁縫箱など中身を調べて細かいものを入れてやる。薬箱、はがき入れだったものを空けて、スパーク、サロンパス、頭痛トンプクなど入れておいた。餅とミカンも入れたかったが、もうカバンいっぱいで入らなかった。お茶の葉を入れ忘れた。一人暮らしだから美味しいお茶も入れられないだろうと思って。

長い休みが終わって、ホッとするところもあるけれど、さみしいといつも話し合っている。でも達人は今夜から持って行った毛布を着て寝るだろう。少しは今までよりあったかくて、よく眠れるものと思って少しは気が休まる。もう一つ、友達に鳥がいる。アパートへ帰った時に鳥がいるということはうれしいだろう。動くものが自分の他にいるということは楽しいだろう。時々鳴く鳥の声と、にぎやかに飛び回る小鳥を見て、少しはさみしさを紛らすことができるだろう、今そのことを考えている。

 

昭和53年1月12日

今年は、少しでもいいから時々物を送ってやりたいと思っている。主に消耗品だと思うけど、月に一回ぐらい送ってやりたい。今年もまた何か新しいものに向かって行きたい。達人のカバンの中に手紙を入れておいた。呼んでくれたかしら、さみしい時には手紙を読んだり、日記を書くといい。

達人の言葉のなか・・・                                           相生の人が名を云おうと、八幡でどう云おうと、岐阜県中でどう云われようと、俺はいい、今に見ていろ、きっと、きっと、やってみせる。お金はどんな場合でも必要だ。俺は一生懸命働いて会社のために頑張る。そしてお金もなるべく節約して、貯めて、心の充実をはかりたい。

今年の正月、達人が話した事のなかに自信のある言葉が大変多かった。そして自分勝手な考え方が少なくなった。家族のことを思い、案じている様子であった。何か柱になろうとする姿が見受けられた。

 

昭和53年1月15日

達人の心の成長、そして変化を見て、どうすればそういう変わり方をするのか考えてみた。まず第一にあげられることは職業が安定したということだろう。月に12万ほどの給料をもらう、年に二回の賞与をもらい、貯金も少しずつ増えてきている。自分の財産を持つようになると心の支えは大きい。人に頼らずにすべて自分の力で得たものであり、また、自分の自由になるお金だ。それだけに大切にするだろう。その心の充実と満足感があの子を成長させ、人に対する思いやりとゆとりを持たせている。その次に人間関係だ。親を大事にし、いつも身近にしていると周りのものまで影響を受ける。達人も自然に親を幸せにしてこそ完成できるように考え出していると思う。

贅沢をしない達人だ。今までに出した長い長い手紙があの子の役に立っているように思える。人生は長くはない、一日一日を大切に生きなければと心に誓う、今の私だ。達人の成長を願っているが、もう一つその時の話だけでなく、確かなものであることを願っている。若者らしく希望はたくさんあるだろうが、それが現実的に一歩でも近寄っているかということだ。例が少なくてもいいが、いろいろな人生経験を重ねながら本物であることを願いたい。

 

昭和53年 秋 日付不明 秋の帰省

秋祭りに帰った時、静かに話し合うことができた。将来の計画を立てているという。家を建て親を呼びたい、そして東京で一緒に住みたい。八幡の神楽も覚えたい、特に笛を吹くことを習いたい、四月の祭りに一度帰ろうかなという。葛飾の祭りに神輿をかついだこと、寄付をしたことなど、本当に微笑ましい話を聞いた。故郷を思う人間は悪いことをしないだろう、月を眺めて故郷を恋しがった。私も今息子の姿を見て、昔の自分の姿をそこに見る。本当の人間らしさを見てうれしかった。

 

昭和53年12月31日 達人の帰宅

31日午後2時頃帰省して、まだ充分に準備の出来ていないところへ帰ってきた。夜はレコード大賞や紅白歌合戦を見ながら東京の話を聞く。家中が急ににぎやかになった。

 

昭和54年1月1日 環境

達人の話に社長に、とても期待されているから悪いことはできないという。人となりの大きな要因として環境だと思う。認められ期待されると、人はそのものにふさわしい人間になろうと努力する。恥ずかしくない人間になろうとする。期待される人間になろうとするのだ。男にとって一番大事なものは職業である。ただ金さえ儲かればよいというものではない。誇りが持てるということも大切である。仕事に定着していれば其の上に計画も立てられ希望が湧いてくる。若者が一生懸命働こうという意欲が沸いてくる。真面目な青年というものは、何かに目標を置いているからだ。将来の生活設計、家の問題、その次に結婚のことなど若いと思うけれど一年は早い、その一瞬を大切に生きて欲しいものだ。

 

昭和54年1月1日 心と身体の健康

先ず健康、身体の健康に合わせて精神的にも健康でなくてはならない。他から見ても何も問題がないのに内面に何か悩みをかかえていれば、それが邪魔をして健康な身体までも蝕む。また、心がいくら健全でも身体が弱いと気力もなくなり消極的になっていく、希望が持てないから常に病に対し恐怖を抱く、心と身体が健康であって、初めて十分な働きができる。青春のエネルギーを良い方につかって欲しいと思う。次にほしいものは人柄であり才能である。気力もいる、明朗さ、寛大さ、やさしさなどすべて、人間関係を作る基礎となるものを大切にして欲しい。

 

昭和54年1月6日 アパート暮らし

今達人はギターを弾くという、楽しみを覚えたので大変いいことだ。夜の長い時など退屈だし、一人きりなので自由はあるけれど寂しくなる。下宿先でギターを弾いたり歌ったりしていられることは気が紛れていいだろう。時価4万円のギターを少し傷があるというので1万4千円で買ったという。とてもいいギターだと話した。あの子の生活を想像しながら今の状態が割りと安定しているのだと思った。

 

昭和54年1月8日 家を持つという希望の下に

一月には珍しく天気の良い日ばかりで本当に春のようだった。達人も存分に遊ぶことができただろう。云いたいことはあるけれど、二十歳という若さだから良いも悪いも今のうちに経験して、その中から出た知恵で大人になっていくのだろう。心配してもどうにもならないと思ってみる。若いうちだから色々あれこれと思うのだろう。迷うことも多いと思う。青春を思い切りぶつけてやってみる、それが生きたという実感だから。家を持つという計画は、あの子の心の中にしっかりと刻まれている。そのことが支えとなり、真っすぐの道を歩くだろう。

 

昭和54年2月8日 電話から

お父ちゃんが何も知らんの困るといったら、もう俺(達人)が何もかもやるで親父が知らんでもいいという。弟も三年たって高校を出られるし、まあそう心配せんでも今に楽になるからと細かい点まで心配してくれた。息子がそこまで言ってくれるのに、なぜ肝心の人は黙っているのだろう、たまに口から出るときは怒るだけだ。本当に情けない、もう少し本気で考えてもらいたい。達人はまだ世帯を持っていないのに私たちのことや、妹や弟の今後を考えて話し合いをしてくれるのに、そばにいる人が何も言わないのはどうなんかしら。

今まで誰にも言ってもらえなかつた言葉を今、息子から聞くことが出来本当に幸せだ。俺が東京に家を作れば安気に来て休んでいけるし、どっちで暮らしてもよい、本当にありがたい言葉だ。あの当時の苦しみが今消えていくような気がする。結婚したら又変わってくるのだろうか。

 

昭和54年2月9日①

子どもの頃充分にはしてやれなかったから、今はなんでもあの子の希望通りにしたらいいと思っている。玩具を欲しがる子だった。乗り物とか、動くものの好きな達人だったから玩具だけは充分に買ってやったような気がする。旅行とか家とかは充分でなかったろう。また、中学の卒業の頃は大変苦しい家計だった。会社が倒産寸前だったのでどうにもできなかった。きっとその苦しみを知っていると思う。高校を辞めたのもお金が欲しいからだった。家を何とか助けたかったのはあの子の気持ちから出ている。吞気に勉強などしていられないといった気持ちからだった。すまない気がする。でも東京まで出て偶然今の会社に入った。その不思議な縁を思う。そして郡上の中にいるような、また、東京の中にいるような、その両立が良いのだから親とか、兄弟とか、故郷を忘れん。あの子は今、大変順調に成長している。

 

昭和54年2月9日② 

下の男の子の進路を決めるについて、親の私たちにも相談なしに願書を出していた。その時は本当にショックで腹も立ったが意外に固い決意だったし、元は達人のアドバイスがあったことを知り、それが本人の心から出たものならば良いと思って今は落ち着いている。下の子が決めた進路、その源は兄達人のアドバイス、それを信じている。親には反発しても兄のことを素直に聞けるのだから、むしろ兄弟同士話せるほうがよいと思う。妹の場合もどうせピアノに通うのなら曲が作れるくらい習ってこいと言われ一生懸命やっている。張り合いが出たと言っている。

こんなことを話したら、あんたの家庭はうまくいっている。兄が弟や妹のことを心配してアドバイスをする、弟がそれを信頼して聞くというのは兄の良い面を知っているからだ。弟も妹も兄に合わせていこうとする、その姿は本当に理想的ではないかと思う、親はどう考えても先に死ぬし限りがある。

 

昭和54年2月10日 今一番喜びたい

世間がいろんなことを言ったが、今思うと子供をしっかり育てたのではないか、目に見えないところで教育していたのではないかと思う。私はあの高校中退の時、本当に残念に思ったし辛かった。世間も悪口を言っていた。親が駄目だからとも聞いた。何と云われようとも私は達人を信じていた。できる人間だと思った。意志が強い面を知っていたから、また何か強いカンをしている達人だから何かやり出したらしっかりやってくれると思った。たとえ他人が何と言おうと母親だけは子供を信じ、愛し抜くことが大切だと思う。上京のときも一晩も二晩も話し合った。東京へ行って思い切りやってみたいらしい、辛かったら郡上へ帰って来てもいい、まだ若い身だからいくらでもやり直しは出来る。都合が悪くても心配せずに、家へはいつでも帰るようにと言ってやった、決して親に遠慮はいらん、自分の家だから安気に戻るよう言ってやった。しかし、一度も戻るという話はしてこなかった。信じたことは嘘ではなく、親孝行な人間になった。また、肉親を思うやさしさが出てきたことは、この上もなくうれしい。

 

昭和54年2月10日 成長した

20歳、15歳、13歳、みんな大きくなった。良い子に育った。もったいないくらいだ。一人っ子は寂しいから兄、弟、妹の三人が心を通わせていく心強さを思うと、あの苦しい時代に考えた私の思いは本当によかった。冒険だと思った三人目の子の出産、どうやって育てるのかと心配はしたけれど、今は本当に良かったと思う。一番下の娘は「お母ちゃん、私も三人子供が欲しい、一人っ子は寂しいし、はりやないも~」と言う。達人も、もっと兄弟がいても良かったと言う、あんなに苦しい思いをして育てたから、きっと子供たちは一人が良かったと言うと思っていたら、もっといた方がよかったと言う。ありがたいことだ。決して自分たちを惨めだとは思っていなかったんだ。

その時その時、精一杯やって来た子供中心の家庭だった。宝は子供しかないからだ。特に達人は下の子どもがあって、働けないために辛い思いをしたろう、すまないような気がしてならない。

 

昭和54年2月10日 今が明日なんだから

いつも明るく働いている達人だから嬉しい。会社を信じ、そこで働くことを幸せに思っている。どうか今後も健康で目的を達成できるよう祈りたい。親や弟妹を思っている、あの子のやさしさが何よりの喜びである。問題があるときでも、親としての愛だけは限りなく持っていたいものだ。私の苦労はきっとあの子の心の中に、何とかしたいと思う心に変わっていったのだろう。誰からも言ってもらったことのない言葉、「東京で暮らしてもいいし、郡上で暮らしてもいい、とにかくもう心配はいらんで心を楽に」こんなことを言ってくれる。私は今この言葉を聞くだけで幸せだ。明日のことまで考えない、今が幸せなんだから。

 

昭和54年2月27日 

達人は東京で就職してから心に落ち着きができた。仕事も真面目だし家のことを思うようになった。給料も計画的に使って初めから貯金もし、切り詰めた中から今では定期預金もあるという。できないことだ。無駄遣いをして遊びたい盛りなのにそれが我慢できるのは良いことだ。達人が貯金をして目的を持ってやってるで嬉しいと主人に話すと、「家での育て方が上手かった」と言った。珍しいと思った。主人はいつも私の育て方が悪いと言って私の責任のように言うのに、初めてこんなことを言った。私が「達人は子どもの頃貧しく育ったからやろうか」と聞くと、「貧しいとお金を使いたがるものや」と言った。

 

昭和54年2月29日 達人の親孝行

「お母ちゃん、もう心配せんでもええぞ、俺がついとるで」「楽な気持ちでやっていけ、子供が大きくなって、後のことは引き受けるで」と達人が言った。本当に有難いことを云ってくれる。今まで子供を抱き抱えて育ててきた甲斐があった。可愛いと思い大切に思って大きくした甲斐があった。子供はいつどこで母の気持ちをキャッチしてくれたのだろうか、反抗ばかりする時には泣きたい気持ちだったが今は違う。私たちを安心させてくれる達人だが本当にありがたくて、こんなに幸せでいいのかしらんと心配をしてみる。親にも、弟や妹にも、そして夫にも一度も聞くことのない言葉だったから。

 

昭和54年4月3日

東京の達人から弟の高校進学祝いとして送金があった。現金で五万円入っていた。早速仏壇に供えて達人の思いやりに感謝した。なるべくこのお金に手を付けないように大切にしたい。毎日一生懸命働いた尊いお金をまとめて五万円送ってくれるということは、なかなか大変なことである。あの子は自分の入学の時のことを思い、中退になった自分を振り返ってそのようにしてくれたに違いない。家の事情もあって中退したかも知れない、その本当の理由は達人にしか解らないが、そのことをひがまないでいてくれることがせめてもの喜びだ。東京の暮らしはきっと自分の希望の道へ一歩ずつ近付いているからではないだろうか。若い時には自分の将来への夢が大きくて、苦労も気にしないと教えてくれた人がいる。いつまでも親のそばにいては独立できないというからそうかも知れないが、あの上京前後の二年間の私たち親子の苦しみは、今思っても危険なものであった。

 

 

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