故郷があるから今がある 全文

私は昭和33年10月、岐阜県郡上郡八幡町という小さな山間の町で生まれました。当時の人口はおよそ2万人、かつては郡上藩の城下町として栄えた町です。今小町で生まれ、10歳まで栄町で育ちました。その後、家の都合で町外れの町営住宅に引っ越しとなり、学校も八幡から相生へと転校になりました。相生中学校を卒業後郡上高校(八幡町小野)に入学しましたが、経済的な理由から長くは続かず、入学して数か月で退学しました。そしてその1年後に上京、今日までの46年間東京葛飾で暮らしてきました。こうなるともう東京人といってもいいような気もしますが江戸っ子ではありません。私の父は立町、母は桜町、両親共に郡上八幡の生まれです。従って私は生粋の八幡っ子なのです。

 

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故郷があるから今がある

17歳までに起きた様々な出来事の中の一部を、このホームページに入場してくださった皆様に知っていただければと思い、薄れゆく記憶を呼び戻しながら書かせていただきました。途中見苦しく、わかり辛い描写があるかと思いますが、すべてが事実であり、ありのままを述べたものです。そういったことを承知の上ご一読いただければと思います。

 

【災難続きの新婚時代】

今小町で新婚生活を始めた両親は、近所の工場火災の延焼に遭い焼け出されました。嫁入り道具等多くの財産を失い、家財道具を運び出そうとした父は二階から落ちて大けが、両親は生まれたばかりの私を連れて命からがら避難したそうです。その後栄町のアパートに入居、そこから再び新婚生活が始まったといいます。長年山仕事だった両親は大した貯えもなく、結婚時に父が借金したこともあり、経済的には厳しい新婚生活を強いられていたようです。また、この地域は雨が多く、今でも大雨の脅威に晒されています。昔は今のような護岸工事も進んでおらず、町のいたるところに危険な箇所があったのです。私が生まれた翌年には伊勢湾台風の通り道となり、両親は乳飲み子の私を抱いて山の手に避難したそうです。そういった数々の困難に遭いながらも私を育ててくれた両親、今こうして元気でいられるのは紛れもなくそのおかげ、心の底から感謝したいと思います。

 

【働かない父】

私が生まれた5年後に弟が生まれました。丸々と太った大きな赤ん坊でした。その2年後、お腹の大きな母が私の勉強机にうずくまって苦しんでいるのを見て、お産婆さんを呼びに行きました。その時に生まれたのが妹です。一家は5人となり大黒柱の父は否が応でも働かなければなりませんでした。ところが人付き合いの下手な父は常に職場人たちと衝突、仕事は休みがちになり、ついには辞めてしまう。さらにギャンブル好きの父は母からお金を奪うようにしてパチンコ屋へ行き、負ければパチンコ台のガラスを割って帰ってくる。その後始末は母が・・・、そういったことが度々繰り返されていました。働かなければ収入はありません。生活は苦しくなるばかりです。米びつに米がない、前のツケが残っているからと配達を拒む米屋、今日食べるご飯がないと泣く母、それでも働かないで寝てばかりいる父、痩せ細る私の体、私は好き嫌いが多いこともあって、学校で行う健康診断のたびに栄養不良と指摘されていました。自分が悪いのでしょうが、消すことのできない悲しい過去であることに違いはありません。

 

【楽しいことも】

貧しいながらに楽しいこともありました。夜いかりの得意な父は夏になるとたくさんの鮎を捕ってきました。もちろん売るためです。私たち兄弟は腹掛かりをした売値の安いものを与えられましたが、これらの鮎は全身に苦みが回っていて子供の私たちにはご馳走とは言えませんでした。それよりも今日は何匹捕れたのか、大きいのはいるのかと、ビクの中を見て魚を触るのが楽しく、毎夜帰ってくるのを今か今かと待っていたものです。

夜は家族全員で銭湯に行くのも楽しみの一つでした。貧乏なわが家は毎日行くことはできず、それだけに皆でお風呂に行ける日はとても楽しかったのを覚えています。風呂上りには番台で売っているフルーツ牛乳が飲みたくて、でもなかなか買ってはもらえず、たまーに買ってもらえると嬉しくて弟と分け合いながら飲んだものです。

読書好きな母は時々貸本屋に連れて行ってくれました。難しい本ばかり借りる母に対し私はマンガ本ばかり、早く大人になって母の読むような難しい本が読めたらいいなと思ったものです。

郡上踊りが好きだった私のために、父は小さな踊り用の屋台を作り、そこに太鼓を置いて叩けるようにしてくれました。それを気に入った私が毎日そこで太鼓を叩いていたと、母が嬉しそうに話してくれたのを思い出します。どうしようもない父親でしたが、そういうことだけはマメにやってくれていたようです。今になって思うのは、そういうところがちょっと似ているということです。うれしいような、かなしいような、どっかで聞いたセリフですが、なんだかむず痒い気がします。

 

【立ち退き要求】

栄町のアパートの家賃がいくらだったかは知りませんが、時々母に白砂糖を持って大家さんのところへ行くように言われました。行くと必ずと言っていいほどお駄賃をくれるので、それが欲しくていつも喜んで行きました。ところがこの白砂糖を届けるのには理由があったのです。後でわかったことですが、アパートの立ち退きを要求されてようで、行くあてのない母は、もうしばらく待って欲しいというお願いの意味で付け届けをしていたのです。まったく知りませんでした。

雨漏りはするは、井戸水の出口に付いている晒し袋に虫はいるは、玄関引き戸の立て付けは悪いは、襖も障子もゆがんでいて、ボットン便所はおつり付き、当然共同おまけに臭い、なにもいいところのないボロアパートでしたが、いざ追い出されるとなるとさあ大変、そんな事情があり何とか阻止しようと大家さんに懇願していたようです。今みたいに居住権を主張して居座るなんてことはなかったのだと思います。

 

【辛い思い出】

どんなに懇願しようとも限度があります。大家さんとして、いつ崩れてもおかしくない建物をそのままにするわけにはいかないでしょう。そんなことからいよいよ住むところがなくなる。それなのに相変わらず父は働かない。困り果てた母は実家へ相談に行きました。小学4年生の夏、お盆のときです。母は実家には誰も住んでいない古い空き家が町外れにあるのを知っていて、そこを貸して欲しいと頼みに行ったのです。その時祖父母がどういうふうに言ったかは知りませんが、実家の後を継いでいた叔父(母の弟)は猛烈な勢いで反対していました。それに追随したのが叔母ともう一人の叔父です。つまり母の弟と妹3人がその家に住むことを許さなかったのです。兄弟に攻め立てられて泣き叫ぶ母、なすすべを持たない私、その場に父の姿はなく、助けることのできない私だけがいる。弟は5歳、妹は2歳、何もわからない二人は仲良く遊んでいました。この時の光景は今でもはっきりと覚えています。

 

『おまんとこのお母ちゃんが悪いんやぞ』

母を助けられない私は従姉妹にこう吐き捨てました。やり場のない怒りを従姉妹に向けるしかなかったのです。本当は叔父叔母を殴りかかりたかった。でもその勇気がなかったのです。この一大事に何故父はいない、父がいたらこの3人を叩きのめしていただろうに、そう思えば思うほど悔しさは倍増してきました。貧しいということがこんなにも人を惨めにさせる、一家の主が働かないために家族全員がこんな辛い思いをしている、こうなったのはすべて父親のせいだ、ちゃんと働かないからこういうことになる、そう思うようになりました。

 

【生活が一変】

この年の秋、私たち家族は町外れの町営住宅に住むようになりました。どういう経緯で引っ越すことになったかはわかりませんが、この頃から父は真面目に働くようになり、少しずつですが暮らしぶりも良くなりました。電話、冷蔵庫、掃除機、洗濯機、カラーテレビ、昭和の高度成長の証を遅ればせながら感じることが出来るようになったのです。クリスマスや誕生日にはプレゼントをもらい、ケーキだって食べられるようになりました。自転車も中古から新品へと買い替えられ、それまでの生活は一変しました。今思うと11歳から15歳までの5年間が一番いい時期だったように思います。

 

【オイルショック】

そして再びやってきた不幸、それはオイルショックでした。日本は石油が輸入できなくなり、原材料が入らなくなった岐阜のプラスチック業界は壊滅的なダメージを受けました。その業界にいた父は失業、不況にあえぐ山奥の町に再就職先はなく、以前のようなぐうたら亭主に成り下がって行ったのです。毎日家でゴロゴロする父の姿を見て、こんな状況で高校を受験したとしても入学できないだろう、入試はやめるべきではないかと考え始めていました。刻々と過ぎる時間、そんななかで向かえた高校受験、流されるように受け一応合格はしたものの入学に必要なお金はどこを探してもありません。仕方ない、入学はあきらめよう、どこか使ってくれるところがあればそこで働こうと思い始めていました。

 

【季節外れのサンタクロース】

昭和49年3月、暖かい春の日差しが立ち込めたある日、名古屋から叔父(母の弟)がやって来ました。なんの予告もなく現れたのは、あの日母をいじめた憎き叔父だったのです。いったい何の用かと思いきや、入学資金にと封筒を私に手渡し、このお金はお前さんの将来のため貸したことにするからと言って置いて行きました。なかには5万円入っていました。母と不仲だった叔父ですが、状況を聞いてわざわざ届けにきてくれたのです。進学をあきらめかけていた私でしたが、季節外れのサンタクロースの登場に戸惑いつつも、この叔父の力添えでどうにか入学することができました。憎き叔父でしたが、この時ばかりは感謝しました。

 

【アルバイト】

高校に入学したまではよかったのですが、入学すると教科書以外にもいろんな教材を追加で買う必要が出てきました。先生の勧めなので買わないわけにはいきません。追加の学用品代を親に出してくれともいえず、どうしたものかと迷い始めました。そこで思いついたのがアルバイトでした。学校帰りに自給200円(3時間)のアルバイトを始めることにしたのです。しかし週に2日~3日のアルバイトではいくらにもならず、学校指定のものを買うだけの収入は得られませんでした。仕方ないので今度は朝早く起き、学校へ行く前に長良川に入りアマゴ釣り用の餌(川虫)捕りを始めました。しかし、1匹2円50銭の川虫など100匹捕っても250円にしかならず、自然相手の商いには限界があることを知りました。いよいよ困った私は学用品を買うことができないと、担任の先生に相談しました。すると先生は、必要なものは貸してあげるから心配しないようにと言ってくれました。涙こそ出ませんでしたが、嬉しかったのを覚えています。

 

【高校中退】

入学して3カ月を迎えたころ、このまま高校へ通い続けるのは難しいのではないか、わが家にはお金がない、まだ小学生の弟や妹もいる、この2人にはこれからお金がかかる、いったいどうすればいいのだろう、入学して4カ月目の7月、私は悩みました。そして長男としてどうするべきか考えた末に出した結論が高校退学だったのです。将来どうするかといった展望のないままの退学は、今思うと危険極まりない行為だったように思います。しかし、15歳の少年に先のことを見通す力などあろうはずもなく、今をどう生き抜くかしか考えられなかった私は、やめて働く以外に道はないと判断したのです。その後先生や同級生が家まで来てくれて、何もやめることはないだろう、休学という方法もあるからどうだろうと、うれしい提案をしてくれたりもしましたが、私の決意は固く、夏休み以降校舎に戻ることはありませんでした。

 

【就業】

学歴のない私に残された道は人一倍働くこと、それしかありませんでした。働いて、働いて、働き抜いてその対価を得る、これ以外に生きる道はなかったのです。16歳といえば遊びたい盛りです。同級生が楽しい高校生活を送っている姿を見ながら、ひたすら流し台で皿を洗っていました。そう、私が就職したのは町外れのドライブイン、そこの厨房で働いていたのです。いつか調理師免許を取って自分のお店を持ちたいと夢描いていたのもこの頃でした。でも、そんな夢などどうでもよく、学校に行けないことが悔しくて、悲しくて、どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのか、この時ほど貧乏を恨んだことはありませんでした。

 

【スクリーン印刷との出会い】

昭和50年春、就職して半年が過ぎた頃、このままでいいのだろうかと考えるようになりました。時間の経過とともに自分自身も成長し、少しずつ考え方が変わってきたのだと思います。このままこの会社で働き続けたとしても自分の夢は叶えられない、そう思い始めるとせっかちな私は矢も楯もたまらず会社を辞めることを決めました。次なる目標を見つけ出そうという思いから5月連休の忙しい時期まで働き、その後すぐに退社したのです。そして就職先を探そうと職安へ通うのですが、オイルショック後の国内景気は未だ冷え切っていて、中卒者が就職先を見つけるのは容易ではありませんでした。そんなある日、ある人の紹介でアルバイトするようになったのが印刷工場でした。私はここで初めてスクリーン印刷というものを知りました。こんな世界があるんだ、ふーん、面白いなー、というのがその時の印象でした。

 

【名古屋だけは行くな】

昭和50年8月、プータローでいること3か月、貯金も減り、いよいよ追い詰められた私は母に相談しました。なぜか父にではなく母に今の思いを打ち明けたのです。このまま八幡にいたのではいつまでたってもうだつが上がらない、だから都会に出て働きたいと告げたのです。どこへ行きたいと聞かれ、名古屋、大阪、東京の三か所のいずれかに行きたいと言いました。すると母は、名古屋にだけは行くな、名古屋には親戚がいる、行けば絶対に世話になる、将来おまんが(お前が)いっぱしになったとしても、そいつらの世話になっとったら一生頭が上がらん、ほうやで(だから)行くなと・・・。恐ろしい母親だと思いました。一番近い名古屋に行くなというのです。名古屋行きが第一候補だった私はこの一言で行くのを断念、そうであればいっそのこと東京へ行きたい、行くとしたらこの会社だとモーターサイクリスト(月刊誌)を広げて見せたのです。そこには求人募集、寮完備、秋田県出身の石井さんも頑張っていますと写真入りで紹介されていました。そして東京上野にあるこの会社(光輪モータース)に履歴書を書いて送ったのです。

 

【出発】

昭和50年8月、お盆が明けると山間の集落には秋風が吹くようになります。それまでの暑さは急に弱まり朝晩はぐんと冷え込む、盆地独特の気候です。そんなある朝、ローン残るバイクに乗り家を出ました。出発したのは8時ちょうど、履歴書を送った会社からの返事を待つことなく、国道156号線を南へと走り出したのです。あの時家の前で国道を行く私に、ずっと手を振って見送ってくれた母の姿は46年が経った今でも瞼の奥に残ってままとなっています。名神高速道路小牧インターまでは70~80kmぐらいかな、なにを考えて走ったかは覚えていませんが、迷いはあったように思います。

一時間半ほど走ったでしょうか、小牧インターの入り口に差し掛かった時、高速には入らず目の前の喫茶店に入りました。高速に上がる前にもう一度気持ちを確認したかったのだと思います。何を飲んだか覚えていませんが、店を出るとき岩崎宏美のロマン

スが流れていたのを覚えています。

 

♪あなたお願いよ~ 席を立たないで~

 

一息入れた私は、後ろ髪を引かれながら名神高速道路に入りました。

 

【東京】

名神から東名へと続く高速道路は快適で、お天気も良く絶好のツーリング日和でした。目的地の東京料金所までの距離は350km、所持金は3万円、まさに片道切符での旅立ちでした。途中ガス欠になり三ケ日で下りて燃料補給というアクシデント、川崎の手前でアクセルワイヤーが戻らなくなり緊急のエンジンストップをかけ、路肩で直し再スタートするという極めて危険な行為を犯しながらも、どうにか辿り着いた東京上野、到着時刻は午後5時、所要時間は9時間、家からの走行距離は450kmでした。後に武田鉄矢さんが『思えば遠くへ来たもんだ』という曲を発表しましたが、この歌を聞いたとき、自分のことを歌っているのではないかと思うくらい共鳴しました。同時に、こういう人が他にもいる、自分だけではないのを知り、肩の力が抜けていくのを感じました。

 

【就職】

光輪モータース人事部の方は驚いていました。そりゃそうですよね、予告なしに来たのですから。すぐに自宅にいる母と連絡を取ってくれて、その場で正式採用、早速制服に着替えて働きました。今じゃ考えられないですよね。コンプライアンスもなにもあったもんじゃありません。なんでもあり、なんだってOK、昭和とはそういう時代だったのです。考えようによってはいい時代だったのかも知れません。

その日から西武池袋線保谷駅から徒歩15分のところにある寮での生活が始まりました。部屋は6畳と3畳の続き間を一人で使わせてくれて、大きなお風呂もありいつでも入れる、朝と夜の食事はもとより、洗濯や布団干しもやってくれるという好待遇ぶりでした。寮には雑誌で紹介されていた石井さんもいて、秋田県出身で少々訛りがありましたが、それは私とて同じこと、すぐに親しくなりました。

 

【初めての賞与】

こうしてどうにか東京にたどり着いた私は、半ば強引なやり方ではありましたが、なんとか人並みの暮らしをスタートさせることができました。とにかくこの会社は厳しかったですが、店長を始めとする諸先輩の言うことをきいて必死で仕事を覚えました。店に来た客は絶対に手ぶらで帰すなと言うのが上司の口癖で、いかにして客を逃がさないで買わされるかを学びました。私は部品番号をいち早く覚え、それ故に注文に対する受け渡しが早く、これが功を奏したのか徐々にお客さんの信頼を得るようになり、売り上げは伸びて行きました。事務所にはグラフがあり毎日更新されます。私の勢いがすごく、社内でも話題になり始め、なかには面白く思わない上司もいて意地悪もされましたが、入社して3か月後の10月、売上高は専務を抜いてトップになりました。そして12月、好成績を評価され、多くの社員が賞与をもらえないでいるなか、私一人社長室に呼ばれ賞与をいただきました。初めての賞与は15万円でした。こんな大金見たことない、うれしくて寮に戻るとすぐ母に電話しました。母も喜んでくれました。次の休日、そのお金を手に街に出ました。デパートにも行きました。欲しいものはたくさんありましたが、結局何も買わず全額貯金しました。

 

【退社】

この会社で働いたのは約半年、裏であくどいことをしていると聞き、このままいるのはよくないと判断、翌年の2月に退社しました。貯金は30万円になり、そのお金で駒込に4畳半一間、風呂なし、共同トイレ、家賃13000円のアパートを借り、ねぐらを確保した私は近況報告のため帰省しました。両親にはこの半年間の出来事や、東京での暮らしぶり、会社を辞めるに至った経緯、そして再度上京し就職先を探すこと等を話し、乗って帰ったバイクはそのままにして、今度はバスに乗って東京へ向かいました。この時17歳、同級生は高校三年生、皆青春を謳歌しているようでした。羨ましかったです。

 

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今回は17歳までの私がどんな生活を送ってきたかを、曖昧な記憶をたどりながらご紹介させていただきました。紹介できたのはほんの一部でしかなく、見苦しい部分もあったかとは思いますが、ありのままの自分を見ていただきたく、恥を忍んで書かせていただきました。一言で言って17歳までの私の人生は酷いもんだったと思います。なにもいいことがなかったと言っても過言ではありません。やりきれない気持ちから、人を恨んだり、憎んだりもしました。貧しいがゆえに優しさを失くしていたのも事実です。その度につぶやいた言葉が『いつか見ていろ』『必ず見返してやる』の恨みの言葉でした。この二語は誰に向けたものだったのか、それは言えません。墓場まで持っていくつもりです。ただ一つだけ言えることは故郷にあるすべてのものに対して憎しみを抱いていたということ、人だけでなく、山も、川も、目に映る何もかもがその対象だったような気がします。

 

2017年10月、私の会社は設立30周年を迎えました。この時ふと出てきた言葉が『故郷があるから今がある』でした。何を思ったのか、当初はどうしてこんな言葉が出てきたのか不思議でなりませんでした。どんなに頭をひねってもこれ以外に言葉が出てこなかったのです。おそらくそれまで溜まっていた故郷への思いが、一気に噴き出したのだと思います。辛い思い出しかなかった16年間でしたが、やはり自分の生まれ育った町とは切っても切れない、不思議な縁(えにし)であることに気付いたのです。どんなに酷い仕打ちを受けた故郷であっても大切にしなければいけないものがある。吉田川で産湯を浸かった者は、いつかまたこの町に戻ってくる。それは大海に出た鮎が遡上してくるように、自分もいつか帰ってくる身であることに気付いたのです。

 

2020年、新型コロナウイルスは私の大切な故郷を奪いました。会社の経営が悪化し、故郷の家も、お墓も、維持することができなくなったのです。昨年の夏、悩みに悩んだ末、故郷終いをし、この地に戻ることはないと心に決め東京に戻りました。しかし、その気持ちを変えさせてくれたのが田舎に住む同級生だったのです。

 

『いつでも帰って来いよ。帰ってきたら家に泊まればええで』

うれしかった、涙が出るほどうれしかった、こうまで言ってくれる友がいる、自分は日本一の幸せ者、故郷を捨ててはいけないと思うようになりました。そしてこの度、故郷を思う気持ちをより確かなものにしようと、自らのホームページを作ることにしたのです。これまでの当たり前が当たり前ではなくなった今、多くの人が新たな価値観を求めて彷徨っています。楽しく食事をすることも、旅行に行くことも、イベントに参加することもできなくなり、今後の暮らしはどうなってしまうのかと、多くの人が不安を抱えています。私もそのなかの一人として、いつかきっと肩を抱き合える日が来ると信じたいです。共に笑い、泣き、感情をぶつけ合う日の戻ってくることを夢見て、今を生きようと思います。そして再び故郷に赴き、仲間と会い、笑って話せる日が来るまで、頑張りたいと思います。

 

2021年2月5日

松井達人